産地の始まり
バラックから繊維街へ
 ▲バラックから繊維街へ
 戦争で焼け野原となった国鉄岐阜駅前に、北満州(今の中国北東部)からの引き揚げ者たちが中心となって、バラック小屋をつくり、古着や軍服などの衣服を集めて売りました。これはハルピン街と呼ばれ、岐阜問屋街の始まりとなりました。
昭和23年頃からは古着ばかりでなく、布を一宮や羽島から仕入れ新しい服を作って売るという岐阜の既製服産業(アパレル産業ともいう)が始まりました。

※既製服……… すでに縫い上げて出来上がっている衣服のこと
※アパレル………英語で「衣服」のこと。

岐阜繊維問屋町連合会の始まり
新岐阜駅前
▲新岐阜駅前
 昭和24年頃から岐阜の既製服は日本中に知られるようになり、現在のJR岐阜駅のまわりには市場や共同販売所ができて、一条通りをはじめ西問屋町、中央通りなど問屋町の建設が進められました。
昭和26年には、岐阜繊維問屋町連合会(現在の(社)岐阜ファッション産業連合会)ができ、岐阜産地と呼ばれるにふさわしい商品・店作りが行われ、売上高も大変増え、岐阜既製服産業はますます発展していきました。(昭和20年〜28年頃までは、衣服が足りず、作れば売れた時代でした。)

研究グループ・県外見本市の始まり

▲昭和29年頃の整備された岐阜駅前
 昭和30年頃から経済成長が始まり、商品がたくさん出まわるようになると、これまでのように「作れば売れる」というわけにはいかなくなりました。
だんだんデザイン・素材の良い商品の価値が高まっていく中で、新しい商品作りや縫製の研究グループができはじめました。商品としては、紳士服(ジャンパーなど)中心から、婦人服・子供服・スポーツウェアなど種類が多くなりました。
また、昭和31年には出張見本市を開くなど、販売地域を広げていくために東北・北海道・九州などで県外展示会が始まりました。

※経済成長… 国全体の経済(生産、売買、消費活動など)が大きく増える事

岐阜メード展の始まり、大量生産時代
岐阜市柳ヶ瀬のアーケードにかかる広告の垂れ幕
 ▲岐阜市柳ヶ瀬のアーケードにかかる広告の垂れ幕
 日本が経済成長する中で、岐阜アパレル産地ではまわりの毛織物産地から仕入れた織物や、合成繊維を使った新しい商品作りが進んで行われ、ますます発展していきました。そして、昭和36年8月に既製服のまとまった展示会としては初めての「第一回岐阜メード展」が開かれ、大変な評判となりました。衣服は既製服中心の大量生産時代になっていきました。

※合成繊維……… 石油などを原料として、色々なものを合わせて作った繊維。
※大量生産……… 人の手で作っていたものを、機械によって同じものを短時間でたくさん作るようになってきたこと。

岐阜繊維卸センターが出来る
70'sモード
 ▲70'sモード
 日本経済が高い成長を続ける中で、既製服も大量生産・大量販売が行われるようになり、岐阜アパレル産地の売り先も地方都市から日本の中心都市へと進出が始まりました。こうした中で、昭和44年には2番目の問屋街として岐阜市敷島町に「岐阜繊維卸センター」が、昭和45年には3番目の問屋街として東海道新幹線羽島駅南に「岐阜羽島繊維卸センター」が出来ました。だんだんファッション(流行)への関心が高くなるにつれ、高級で個性的な衣服が求められるようになり、デザインなどが大切になっていきました。

石油ショックを乗り切り、国際交流が始まる
外国からのお客様
 ▲外国からのお客様
 石油ショックの影響で経済の成長は低くなりましたが、ものが増えて生活は豊かになり、人々は自分にあった質の良い商品を求める時代になりました。こうした中で、岐阜問屋街でも製品を早く作る為の工夫をしたり、それぞれの店ごとに特長のある商品作りに努めるなど、岐阜の製品の向上に努力しました。その結果、岐阜の繊維産業は、景気が悪い時でもあまり影響を受けずに成長することができ、岐阜市の産業の中心となりました。
また、昭和53年2月には、岐阜市はイタリアのフィレンツェ市と姉妹都市となり、ヨーロッパのファッション情報を交換したりして、岐阜問屋街もだんだん外国へと目を向けるようになりました。

※石油ショック… 石油がたいへん値上がりして、日本も大きな影響を受けた出来事。

国際化へのあゆみ
アパレルポリス21で来日した
パコラバンヌ氏とクレージュ氏
 ▲アパレルポリス21で来日した
パコラバンヌ氏とクレージュ氏
 日本が国際化へと進んでいく中で、長い間親しまれてきた岐阜アパレル製品の総合展示会である「岐阜メード」(昭和36年8月、第一回開催)の名前も昭和58年1月から「岐阜ファッションフェスタ(GFF)」と変わり、内容もますます充実したものになりました。そして、昭和59年1月にはイタリアから有名なデザイナーを迎えて、「イタリアファッションショー」が開かれました。また、昭和59年11月にはフランスから世界でも有名なデザイナーの4人を岐阜市に迎えて「アパレルポリス岐阜21フェアー」が盛大に行われ、岐阜アパレルの国際交流は、日本中から注目を集めました。
こうしてますます国際化が進む中、大手企業は外国に生産工場をつくり、問屋街には、台湾・香港・シンガポールなど外国からのバイヤーが増えてきました。

※バイヤー…買い手、外国貿易の買い付け人。

ファッション都市−岐阜を目指して
カジュアル・フライデー・サミット(左)
「おしゃれプラザの日」(右)
 ▲カジュアル・フライデー・サミット(左)
「おしゃれプラザの日」(右)

 昭和63年には”市制百年”を迎え、各種の記念事業をはじめ「岐阜中部未来博」を開催するなど、「百年の歩み 百年からの飛躍」のテーマのもとで大きな成長を遂げました。これからはコンピューターを使って情報を集めたり発信したりする仕事が、ますます重要になっていく時代です。そこで、通商産業省が提唱したニューメディアコミュニティ構想で、「ファッション産業先端化型」のモデル指定を受け、アパレル産業の情報化のための会社((株)岐阜ファッションコミュニティ)を昭和63年3月に設立しました。いっぽう、岐阜ファッションフェスタ(GFF)の名で親しまれた総合展示会を平成3年から「岐阜ファッションフェア(GFF)」と改めたり、また「ア・ミューズ岐阜」という新しいイベントも始めるなどして、岐阜製品のPRとアパレル産地−岐阜の名を世界に発信する努力が続けられています。
また、「世界のファッション工房GIFU」を目指し、未来のファッション界をリードしていく若いデザイナーを育てるため、平成5年から県と市と産業界の共同で世界の学生の中からファッションデザインNO.1を決定する「WFC岐阜国際学生ファッションコンテスト」を毎年実施しています。さらに「金曜日はカジュアルな服装で仕事をしよう」とする「カジュアルフライデー」を提案し、「カジュアルライフフェスティバル」を開催するなど、岐阜からの情報発信を積極的に行いました。


高架事業をきっかけに駅周辺開発が進む

アクティブG
 ▲ワールドデザインシティGIFU(愛称:アクティブG)

 平成8年にJR岐阜駅周辺鉄道高架が全面開通したのをきっかけに、駅周辺の開発整備が進み、JR岐阜駅の新駅舎や南口駅前広場、岐阜市駅西駐車場などが完成しました。続いて、平成12年には岐阜駅高架下に「アクティブG」が完成し、駅周辺に新たなにぎわいを生みだすとともに、岐阜から世界へ向け、デザインやファッションなどあらゆる情報を発信するようになりました。また、平成10年には岐阜産地製品の中から一つの目的に沿った商品を集めたブランド「オリベスク」(岐阜婦人子供服工業組合)を立ち上げ、カタログ通販やインターネットなどを使って、岐阜製品の販売やPRに努めてます。

※JR岐阜駅周辺鉄道高架事業………
  JR岐阜駅のまわりの線路を高くして踏切をなくし、
  人や車の流れをよくしようとする事業。

21世紀を迎えて
 岐阜市は21世紀を迎え、さらに大きく成長していきます。
駅周辺の開発整備がさらに進み、平成13年には郵政省の地域文化活動支援施設「ぱ・る・るプラザGIFU」が完成し、問屋街の再開発ビルの建設や香蘭地区に大型ショッピングセンターができるなど。大きな開発事業も進んでいます。また、平成14年には岐阜駅高架下の東側部分に岐阜市の生涯学習拠点施設が完成し、市民が集い、ふれあい、学びあう場として活用されています。こうした駅周辺のにぎわいは、問屋街をはじめ岐阜のアパレル産業に大きな活力を与えていくでしょう。これからは、これらの開発産業と歩調を合わせ、服を作って売るだけでなく、世界のファッション情報が集まってくるような情報の集積基地を目指し、「岐阜のファッション」を世界に向けて発信していきます。

※地域文化活動支援施設……… いろいろなイベントやコンサートができるような、ホールや会議室のある施設。
※香蘭地区……… 以前は、国鉄貨物駅があった所で、岐阜西通とJR東海道線が交差する辺りにある広い土地。
参考: 「ファッションのまち岐阜」
発行者: (社)岐阜ファッション産業連合会、岐阜市経済部商工課ファッション振興係


Mailto : info@gifu-fashion.com